爺ちゃん子

山・岩の話ではありません。ご了承ください。


祖父が他界した。
母方の祖父である。
父方の祖父は、生まれる前に既に他界していたので、たった一人の祖父だった。

母の兄弟は母も含めて5人兄弟。
それなりの数の孫の中で、一番かわいがってもらった。
自分が生まれた時期と、祖父が仕事を定年退職し、最も時間がある時期と重なったから、自然と一番縁が深かった。
俗に言う「爺ちゃん子」

小・中学生のときに一緒にサイクリングに出かけたり、一緒にあっちこっち旅に出かけた。
鉄道の旅が好きで、一緒に新幹線に乗ったり、青函トンネルを通ったり、今は無き青函連絡船にも乗った。
旅行の計画に必須だった、分厚いJRの時刻表の見方を教えてくれたのも祖父だった。今となってはネットで簡単に時刻を調べられる便利な世の中になったけど。
でもこれから乗る列車を時刻表で追っていくと、気分が高まったり、駅弁の情報や、止まる列車の本数の多さでその駅の規模を想像したりと、子供のころは時刻表を見て時間が過ぎていったものだった。

父親の縁が薄かった自分にとって、父親の代わりでもあった。
身体が弱かった小学校低学年の時分、高熱を出してうなされていた自分を負ぶって、近くの病院まで雪道をひた走りしてくれたっけ。

折鶴の折り方を教えてくれたのも祖父。
一時は折り紙の本を買って二人で、色々な動物を折っていたっけな。
今となってはほとんど忘れ、折鶴しか折れなくなったけど・・・
でもその折鶴が、海を越えてアメリカの地で、米ドルで折ったら、現地のアメリカ人に大受け。
子供の時分に祖父と一緒に折った折鶴が、異文化コミュニケーションの道具になった。

その祖父は今年で98歳。大往生だった。93歳まで一人で旅行もしていた。
数年前、怪我をして寝たきりになり、今月始め風邪をこじらせて肺炎に。
そして火曜日の午前、母よりメールがあり、祖父の永眠を知った。

明治生まれで、高校の先生をしていた。先の大戦では陸軍に召集され中国へ。
戦争について聞いても、ほとんど語ってくれなかった。

お酒が好きで日本酒を毎日晩酌していた祖父。
相撲の中継を見ながら、焼き魚を肴に、日本酒をすするようにしてチビチビやっていた記憶がある。
自分は日本酒はあまり飲めなかったので、ガッツリお付き合いすることはできなかったが、たまに会ったときは一緒にビールを飲んでいた。

通夜に参列し、焼香が終わって自分の席に着いた途端、涙が止まらなかった。
悲しいとか寂しいとかじゃなく、なんだかわからないが悔しさというか、心の中から激しい何かがこみ上げて、涙となった。
通夜振舞いでも箸をほとんどつけず、やっと気持ちが落ち着いてビールを口にし、長男の伯父と夜通し焼酎を飲んだ。 伯父との会話で、今まで自分が知らなかった祖父の一面を知ったり、新鮮だった。

翌日の告別式では、涙が枯れたのだろうか、むしろ気持ちよく送り出すような、すがすがしい気持ちだった。
だけど火葬場に棺おけが納められた瞬間、一瞬涙が出た。

祖父は痩せてがりがりだったが、骨は太かった。
しっかりとまっ白な骨が残っていて、祖父の身体の丈夫さを物語っていた。
そして焼け残った2本の人工骨。

次男の伯父から、祖父の形見として腕時計を譲ってもらった。シチズンのクォーツ時計。

旅好きな祖父の新たな旅が始まった。
形見の時計で時刻を確認する度に、祖父は天国の列車でどこら辺を走っているのかなぁと、思うのだろう。

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この記事へのコメント

マー姉
2009年05月30日 23:33
良い思い出たくさんだね。

私には、祖父も祖母もいないと同じなので
羨ましいです。(おじーちゃん、おばーちゃんと呼んだことはありません)

激動の時代を生き抜いた、時代の変化を
見つめながらの年代の方ですね。

カジタニさんは、これからもずっと爺ちゃんに
見守られて幸せですね。

爺ちゃんは、旅をしながらも、カジタニさんを
思ってますよ。
カジタニ
2009年05月31日 23:43
>マー姉さん
温かいお言葉ありがとうございました。

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